自叙伝「真昼を掴んだ女」より抜粋。ベルジュバンスが出来るまでの話

昭和9年春。  私は、故郷の福島県郡山(こおりやま)を離れ、付き添いの伯父(おじ)達3人と東京上野(うえの)行きの汽車に乗っていました。美容師となるべく、両親の強い反対を押し切っての旅立ちです。しかしそれが、これから起こる波乱万丈(はらんばんじょう)の人生の幕開けだったことは誰も、そして、私自信も知る(よし)もありませんでした。

ようやくたどり着いた「お茶の水美容女学校」は小高い丘の上に立つ3階建てコンクリートの立派な建物。なんとここが、夢にまで見た美容女学校だったのです。看板には「文部省認可」と書かれ、東京の真ん中でもそこだけは(きわ)立っています。早速、校長「山﨑(せい)(こう)」との面会になります。初の挨拶での際、叔父達3人は、その堂々とした風貌と、穏やかでありながらも、自信に満ちた話しぶりに圧倒され「ここなら安心だ」と、わたし一人残し、早々に学校をあとにしてしまいした。叔父達が帰ると、私はいよいよ厳しい内弟子(うちでし)としての生活がはじまりました。

山崎(せい)(こう)が「お茶の水美容学校」を創設(そうせつ)したのは大正2年のことでした。わが国で初めて文部省から認可された本格的な専門学校で、ここでは、美容技術をただ教えるだけでなく、高い理想に基づいた人間教育を強調していました。

「われわれは品性を高め、徳を(おさ)め、人格の修養(しゅうよう)(つと)めなければならない。」「これからの美容師は生理学、化学、物理学、医学といった学問が必要になる。」「技術の習得は当の本人が本気で受取らねばならない。」「髪は神なり」。校長の教えにはただならない本気の気迫があるのでした。美容学校での4年間で学んだことは、真っ白な頭と心にストレートに叩き込まれたようです。そして、その後の私の人生においてもシッカリと深く根ざしたものになるのでした。

平安時代から宮中に伝わる伝統と作法。これを「衣紋(えもん)(どう)」といいますが、宮家(みやけ)()内省(ないしょう)とも縁のあった校長は、宮中での婚礼や儀式でしか使われない十二単(じゅうにひとえ)や貴婦人の礼服など文化的な衣装を所蔵していました。校長はこれらを使って、次世代の後継者に(たく)すことを自らの使命としていました。誰でも望んで学べるような世界ではなさそうです。それを校長が私を後継者にと選んだのでした。

昭和30年。宮内庁(くないちょう)(しょう)(てん)(しょく)有職(ゆうそく)故実(こじつ)研究会会員の青山トシオ氏とご縁が繋がり、戦後の復興支援活動として、民間で初めて宮廷(きゅうてい)装束(しょうぞく)十二単(じゅうにひとえ)束帯(そくたい))の公開ショーを企画し、典雅(てんが)な「五節(ごせち)(まい)」の披露が社会的な話題をよびました。このショーを京都(きょうと)御所(ごしょ)が高く評価して下さり、甲部(こうぶ)歌舞伎(かぶき)練場(れんじょう)で、「(まい)」や「衣紋(えもん)(どう)」はもちろんのこと「茶道(さどう)」「華道(かどう)」の家元(いえもと)、「宮内庁(くないちょう)雅楽部(ががくぶ)」が参加するといった豪華な「宮中(きゅうちゅう)(ぶん)()(てん)」へと発展いたしました。

このような事がきっかけとなって、昭和34年。民間からただ一人選ばれて、皇太子ご成婚の時、青山氏の助手として美智子妃の衣紋(えもん)をお手伝いさせていただくという光栄をうけたまわったのでした。

昭和23年。まだ戦後の混乱も落ち着きを見せない頃、念願の美容室をオープンしました。名前を「あなたの夢を叶える」という意味で「叶家(かのうや)美容室」としました。世はコールドパーマ全盛の時代に入っていて、それは大盛況で経営も順調でした。しかし、連日の忙しさで美容師の手が荒れてきた事が気になり出していました。そして、翌朝になっても前日の疲れが取れない事も。

そんなある日、東京大学 病理学研究室の先生から鋭い指摘をうけてしまったのです。それは、美容院で扱う毛染めやパーマ液はとんでもない劇薬だという事でした。そこで初めて、自分や従業員の健康が日を追うごとに蝕まれていくのが理解できたのです。

先生は強い調子で説明してくださいました。『人間の皮膚や毛髪は弱酸性のタンパク質でできているから強いアルカリには弱いのだよ。』との事です。私はその初めて聞く「アルカリ性」「酸性」と言う言葉の衝撃と共に、この日を(さかい)に生涯、無我夢中、手探りの「弱酸性美容法」の研究に没頭する日々がはじまったのです。

それからの長い歳月は、試練と苦難の連続でした。信頼していた製造会社の2度にもわたる裏切りをうけ、社会的にも金銭的にも少なくないダメージを受けたこともありました。一方で私を案じてくれる同業者や友人、家族、そのほか様々な人たちに支えられ、私は苦境から脱していきました。

恩師『山﨑(せい)(こう)』校長の「これからお前たちが自分の手で学んで行かなくてはならないことは、生理学、化学、物理学、医学など幅広い分野である。それが本質的な美の道である」この教えを揺るぎなく信じて。

東大病理学の先生に始まり、脳外科医の「向井紀二(むかいけいじ)」先生、慶応大学医学部教授「加藤(かとう)元一(げんいち)」先生、東京農大「伊藤(いとう)信吾(しんご)」先生と、各分野の専門家、それも第一級の先生方、その他、大勢の研究者との出会い。皆様に、励まされ、助けられながら、この弱酸性美容研究の確信を支える基礎理論を得ることができたのです。その後は適正なph(ぺーハー)値を割り出すには自ら研究しなければなりませんでした。おびただしい数の髪の毛を前に、緻密な実験を繰り返し3年程続いたでしょうか。しかし、数々の失敗と長年の修練に裏づけされた技術上の自信があったので、この時期は焦ることなく頑張り抜くことができたのです。

昭和27年「山﨑伊久江美容研究会」が発足されました。当初の講習会は必ずしも体系づけられたものではありませんでしたが、内容は当初から厳しいもので、朝9時頃から夜10時過ぎまで続く勉強づけで、7日~10日間の日程でした。そして、数年後には高度な技術講座としての枠組みができあがっていくのでした。

余談になりますが、この活動をもとに、昭和31年に実施した「ビューティーセミナー」は、一級の美容技術講習会として評判になり、現在にいたるまで引き継がれ、多くの美容師の育成に貢献しています。また、昭和27年に正しく理論確立された「ヘアスタイリングの基礎技術」は、昭和43年に出版され、その後の美容師国家試験に大きく採用され、21世紀に入った現在もそれは生き続けております。

昭和38年。理想のパーマ液、研究に取り組むこと15年目にしてようやく弱酸性コールドパーマ液「ベル.ジュバンス」の製品化に成功します。いよいよ弱酸性のパーマ時代の幕開けです。

しかし、これが大変な道のりになったのでした。全国販売に踏み切った当初は8割が返品されるという惨状でした。原因は「受け入れる美容師の技術の問題」とは分かっていたものの、現実に勝てない苦しさに苛立ちを隠せないのでした。

ベルジュバンスを普及させるためには、理論の正確な理解と、施術法が大切なのです。徹底した技術指導の繰り返しと理論学習を()して、「ベルジュバンスを使いこなしていただくための」地道な講習活動で積み上げていく方法に全力を傾け、活路を見出そうとしたのでした。

そして、全国の地方支部をまわっての講習活動を支えてくれたのは、研究会時代から研鑽(けんさん)を積んで講師になられたみなさんでした。